家出少女と星の河

「俺が食わせてやってるんだよ!お前が家で楽してる間も、俺は汗水垂らして働いてんの!」

「はァ!?だからって浮気して良いわけ?ふざけんな!」

「だからッ、あれは浮気じゃないんだよ!遊びだって何回も言ってんだろ!!お前だって俺が居ない間、家事もしねえでパチンコ打ってんだろ! バレてないと思ってんのか!?」

「それ、はッ……べ、別に良いでしょパチンコくらい!ストレス発散してるだけで誰にも迷惑掛けてないし――」

激しい夫婦喧嘩の隅っこで、猫の人形を手に持った少女が一人、冷めた瞳で罵声の応酬を見つめていた。
少女の名前は朝比奈ルナ。月と書いてルナと読む、少し変わった名前の少女だ。ルナが見つめる先で、何度目か分からない喧嘩は、母の逃亡で幕が降りた。

父はルナに目を向けることさえせず、酒を呑み干しては布団でいびきを掻いている。
それを見つめたルナは呟いた。

「……そうだ。星を捕まえに行こう」

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 深夜0時、蝉も寝静まる夏の夜に、ルナはこっそり家を抜け出した。片手には虫取り網、もう片手にはお気に入りの猫のぬいぐるみが握られている。
 
「星……うーん」

 ルナが見上げる夜空の星は、途方も無く遠い。それらを捕まえるのは、蝶々を捕まえるよりは遥かに難しいだろう。
 ルナはくすんだ空色のワンピースの裾を揺らしながら、人気の無い夜道を歩いた。時々空を見上げては、チカチカと球切れを起こす街灯に目を奪われ、車が来れば慌てて電柱の後ろに隠れる。

 ぽすぽす、と小さなサンダルの足音を響かせながら、ルナは星を見上げ……一度網を振ってみた。

「……ダメ」

 一応月にも振ってみたルナだったが、月も捕まらなかった。どうしようかとルナは頭を悩ませて……そうだ、と明暗を思いついた。
 夜闇に溶ける黒い瞳が、町外れの山を見つめていた。

「山の一番上なら……届くかな?」

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そうと決まれば、足の軽いルナの行動は早かった。てくてくと疲れ知らずの足で山へと進み、コンビニ袋を手から下げる大学生や、疲労困憊のサラリーマンから隠れ、山の前を目指す。

何度か危うい場面はあったが、彼らはスマホに目を落としてばかりであったので、どうにかルナはバレずに済んでいた。
そこそこの距離を歩いて山に辿り着いたルナだったが……どうしてか、先客が居た。

それは小太りの中年で、服装で言えばサラリーマンである。だが、ネクタイやベルトが無く、それらは手に握られている。
深夜の山で、男は木々を見つめていた。

「これじゃ駄目だ……体重で折れる……」

ボソボソと男は独り言を漏らしていた。ルナは回り道をしようとしたが……そこで、丁度男が振り返る。

「えっ」

「あ……」

男はあまりにも場違いすぎるルナの存在に目を丸くして、次に目を擦り――最後にボソリと呟いた。

「これって、走馬灯かなぁ?」

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意味不明な言葉を呟く男にルナは引け腰になったが、逃げていいのか、逃げるべきかと小さな脳みそで複雑な処理をしている内に、男が口を開いた。

「えっと……君は?」
「……」
「あ、僕は……新井裕貴っていうんだけど……君の名前って……?」

男は何度か言葉に詰まりながら、ルナに名前を聞いた。ルナはどうしようかとしばらく立ち往生した後に、観念したように「ルナ」とだけ言った。
男はルナの名乗りに目を瞬かせて、少しだけ黙り込んだ。一重の瞳が何かを考え込んで……静かにルナを見る。

「えっと……ルナちゃんは、何か探してる物があるのかな?」

男の瞳は、ルナの虫取り網を見ていた。ルナはまた迷って、細々と口火を切る。

「……星」
「星……?」
「星を、捕まえるの」

男はなんとも言えない顔になって、ルナの服装や表情を見て、言葉を飲み込んだ。そして深々と息を吸うと、こう言った。

「それ、手伝ってもいい?」

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男の言葉に、ルナは口ごもった。学校で習った『いかのおすし』の標語が脳裏によぎる。目の前の男は、はっきり言ってかなり怪しかった。着崩れしたスーツ、前髪の後退した頭、伸びっぱなしの髭に分厚い唇。

――けれども、その目だけはどうしても、どうしても綺麗に見えた。ルナは震えた声で、なんで?と聞いた。

「え……。あ……し、知ってるんだ。星が捕まりそうな所。何個か知ってるから……どうかなって」

猫背な背中を更に丸めて、中年の見た目で少年のような仕草をした男に、ルナは目を丸くした。
正直な所、ルナは不安だったのだ。暗い夜、知らない道。辿り着いた山は薄暗く、星が捕まるか分からない。

まさしく助け舟な言葉に幼いルナはまんまと乗ってしまい、ぱっと顔を明るくして、首を縦に振った。
男は驚きに固まるが、ルナはその気分のまま、授業でよく使う挨拶をした。

「よろしくおねがいします、ユーキさん」
「……えっ?」

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「え、あ、え……そ、それじゃあ……えーっと、一個目の場所、に行こうか?」
「うん」

男ことユーキは、あまりにも素直かつ無防備すぎるルナの言葉に、挙動不審になりつつ、なんとか言葉を繋いだ。
挙動不審な態度は随所に見られていたので、特にルナは反応することなく、ぬいぐるみと虫取り網を握り直してユーキを見上げる。

ユーキは額に伝う脂汗を拭いながら、引きつった笑顔でルナを先導し始めた。
その道筋は山の周囲を時計回りに進む形で、少しだけ鬱蒼とした道を通ることになる。

ルナはそれに不安を感じて、けれども時折心配そうにこちらを振り返るユーキの目を見て、安心した。
ユーキは進みながら、ぎこちなくベルトとネクタイを締め、怪しさ満点から八十点程度まで抑えつつ、ルナを案内する。
そうして辿り着いた先、茂みを掻き分けて現れた光景に、ルナは目を見開いた。

「っえ……ぇ?」
「一応、この山の展望台、なのかな?」

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 少しだけ開けた木造の足場と、錆びた望遠鏡。数日前の雨で未だ湿った木製の手すりの向こうには、小さく隣町の灯りが見えていた。
 そんな地上の風景の上に、星空が大きく広がっている。紺色の空に瞬く星の数々は、電線とセットで見るより遥かに美しい。

「……雨が降った後だからか分からないけど、いつもより綺麗だな……」

 ユーキがぼやいて、ルナは少しだけ涙目になりながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。
 剥き出しの月と、疎らな星々。絵に書いたような夏の星空にルナの呼吸が止まって――ゆっくりと虫取り網が空に振るわれた。

 それはニ、三度星空をかき混ぜてから……ゆっくりとルナの手に戻る。ルナはそっと、虫取り網の中を確認した。

「……ダメ」
「そっか……」

 少しだけ網目のほつれた虫取り網には、何もかかってはいなかった。

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 ユーキはしんみりと星を見上げて……その視界に、また網が映った。ルナはまた、網で星を追っていた。空を掬っては中身を確認し、星を狙っては肩を落とした。
 何度も、何度も何度もルナは星を狙う。しまいには見かねたユーキがその手を止めた。

「ルナちゃん、落ち着こう?」
「あんなに、あんなにいっぱいあるのに……なんで捕まらないの?」
「……」
「一個でいいのに。一個だけでも、捕まえたいのに……」

 ルナの言葉に、どうしてかユーキが押し黙った。その顔色が青白くなり、しかし何とか口を開く。

「……大丈夫だよ。うん、大丈夫。まだあと幾つか、捕まりそうな場所があるから」
「……本当に?」
「うん。案内するよ」

 この夜が明けるまで、とユーキは言った。ルナはその言葉に頷いて、両手でぬいぐるみを抱き締める。
 そうして、二人は少しだけ星を見上げていた。次に行こうか、とユーキが言うまで、静かに……静かに。

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